白票について

誰が最初に言い出したのか よくわからないのだけど、
ともかく 選挙にあたって、どの立候補者も気に食わない場合は
投票用紙には何も書かない、「白票」として投じるべきだ、
と言う人が、僕が小さい頃から現在まで、変わらずにいるように思う。

大きくなって、選挙権を持つようになって、
広報板のポスターを見て、なんだか いまいち さえないなあ、と毎回思いつつも
個人的に必ず守っていることがある。
それは、白票を投じない、ということだ。

だって、何も書かないで投票してしまったら、
こいつだけは議員にしてはいけない、と思う候補者への票なのか、
いろいろ言いたいことはあるが そこまでひどくはない、と思う候補者への票なのか、
区別がつけられなくなってしまう。

とてもネガティブな理由で、あまり良い気持ちにならないから
できるだけ避けた方が良い考え方だけど、
僕は、こいつだけは議員にしてはいけない、と思う候補者を明確に否定するために
毎度 投票に行く。

白票をすすめる言説というのは、もとをたどったら
白票が制度上有効にはたらく国が発祥なんじゃないかなあ、と想像している。
もし そうなら、白票が無効票になる日本では
やっても あまり意味なくって、ただのスタイルにとどまってしまうんじゃなかろうか。


白票で、国内政治への否定のメッセージを表明できる、と主張する人もいる。

二十代が白票を投じれば、街宣車は沈黙する - わかりやすさを、コーディネート

「でも納得できることを言っている政党が無い」というなら、白票でも良い。
「白票なら、投票しなくても一緒じゃ無い?」と思うかもしれないが、全然違う。
投票しないのは、政治に無関心だと思われるので、これから先も投票しない人の意見は無視される。
しかし、白票は「自分たちの納得できる政治家(あるいは政党)が無い」という明確なメッセージになる。

それが、あまり僕にはピンとこない。
それって、どこへのメッセージになったんだろう。

白票を投じる。
投じた白票を、その地域の公務員の人が開票する。少し悲しい気持ちになるかもしれない。
結果を集計する。場合によっては、白票の数についても結果が公表されるかもしれない。
当選した政治家の票数より、白票数が多かったら、
政治家の人は少し悲しい気持ちになるかもしれない。

その構図に出てくる人々は、建前に過ぎないかもしれないが、
皆 法の下に平等である 市民ひとりひとり
思い切った言い方をすれば、「隣人」である。
(小さい頃、議員さんがご近所だったので文字通り隣人だったりもした)

単に隣人に向けて「なんだか どいつもこいつもダメだよな」
と湿ったグチをこぼすだけで、世界は変わるだろうか?
白票には、外向きのメッセージが何も感じられないのだ。


と、少し 狭量なことを 選挙の度に毎回思っていたのだけど、
今回いろいろ考えていて、もう少し考えを進めることができた。

白票を選ぶのは、自分の匿名性を確保した中で できる
唯一の主張手段だからかもしれないな、と。

「なんだか どいつもこいつもダメだよな」なんて言うと、
「じゃあ お前 対案あるのかよ 気の済む形で立候補しろよ」と
けんか腰でつっこまれてしまいそうだけど、
まあ だいたい立候補する人というのは 放っておいても立候補するもので、
普通は あまり立候補しない。

一生ついてまわる自分の名前を掲げて主義主張を唱えれば
それらと相反する主義主張の人たちは必ず現れるもので、
ときには厳しい糾弾に対して、生涯をかけて自説を貫けることなんて、なかなかできない。
その他、なんだかんだ 普通の人にとっては立候補の壁がけっこう高いこともあり、
いまいちな候補者ラインナップを目の前にしても
自分が代わりにやる、ということは、かなりやりにくい。

そんな中でも、なんとか一矢報いたい、という思いが
白票に託すメッセージへと つながっていくんじゃないのかなあ。
動機がなんであれ、どう投票するかは自由なのだから、
あまり そういう人たちを強く否定するのもどうだかなあ、と
最近は思っている。


まあ、僕は今度の選挙についても、白票は投じない。
正直、今度の選挙は、選択が難しいけど。

選択に迷う時、よく 直感にまかせる。

まったくランダムに、どれかひとつを選ぶ。
選んだものは、選択してはいけないことに決めておく。
そのとき、直感的に「えっ ダメなの? 嫌だ!」みたいなことを思ったら、
それは選択すべきものだ。

どうせどれを選んでも後悔しそうな選択だから悩むのであって、
だったら、経験に基づく直感の方が信頼できそうな気がするのだ。