真冬の夜、西友。
真夏の夜、西友。
一年中いつでも、妻の好きなアイスクリームを
買って帰ろうかと考えるのだけど、
そのたびに感じる違和感が、小さい頃に習った童謡のことを思い出させる。
おとぎ話の王子でも、昔は、とても食べられない。
僕は、王子ではないけれど アイスクリームを召し上がる。
西友では、100円でまあまあおいしいアイスを一年中買えるけど、
これは、現代の社会システム無しには、ありえない、信じられないようなこと。
僕は王子ではないけれど、
ふと気づいてみれば、けっこう王子様みたいな生活だ。
アイスクリームに限らない。
少し往来に出れば、古今東西の美食に手が届き、
だいたい食べきれずに残して捨てる。
自ら学問・芸術をたしなみ、教師を雇える。
それが、生活のために必要でなくても。
どこにでも連れていける、自分専用の楽隊や道化師がある。
( iTunes とか、 YouTube )
憧れて熱心に聴くというよりは、何かのついでに気を紛らせるために。
誰が走るよりも速く届く、魔法の手紙がある。
あまり速く届くのが普通すぎて、少し遅れれば すごく腹が立つ。
こんな世の中で、自分が貴族だと勘違いする人々が、いないわけがない。
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ここ数年、社会の仕組みについて考えることが多い。
現代日本で採用されていると言われる 資本主義 っていうものは、
純粋にお金の支払いの方向によって、召使いと王子の役が絶え間なく変わる
ずいぶん割り切ったシステム、ということなのかなあ、とか。
たとえば、その辺のコンビニでへこへこ頭を下げてるおっさん店員は
見た目にも明らかに召使いなんだが、
夜は居酒屋で横柄な客になり、あたかも貴族が召使いをたしなめるように
ビールが出てくるのが遅いことについて
アルバイト店員を相手にくどくど愚痴っている、なんてことは、
みっともないけど、ぜんぜん不思議じゃない、よくあることだ。
僕たちは 毎日の半分くらいの時間を、誰かの召使いになることに使い、
その結果得られた ささやかな金を、自分が貴族のように振る舞うことに使う。
誰もが召使いであり、貴族でもある。それが、平等ということなんだろう。
おそらく社会は、その組み合わせを人間の数だけ複雑に作り上げて
もう誰もそのすべてを把握しきれないような状態で続いているのだ。
しかしここで、かんたんな疑問が生まれる。
召使いの立場になることがない、いわば「一方通行の王子」が
その仕組みの中には けっこういるんじゃないかなあ、と。
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働かず、金をもらって道楽に使い続けるニート、
などということに限った話ではない。
仮に仕事に就いていても、
ただ「長」のつく役職についていたりするだけで
傲慢に振る舞う人なんて、いくらでもいる。
つまり、本来 召使いとして過ごすはずの時間を
貴族のつもりで過ごせてしまう人については、
誰でも 召使いに変わる時間のない「一方通行の王子」になりえる。
僕らはたぶん、そうならないように気をつけなければならない。
それは平等ではないからだ。
僕らがこの社会の中で時折得られる、貴族の役になれる時間は、
そよ風でタンポポの綿毛が飛んでいってしまうくらい、いつでも揺らいでいるのだ。
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