母方の祖父は暖かい手の持ち主だった。
農業を営んでいた祖父は、大地を耕す中で太陽の恵みをその手に刻んできたのだと思った。
祖父が亡くなる1か月前に会いに行った時、手はもう暖かくなかった。
亡くなった後、俺は勝手に、その太陽の恵みは自分の手に受け継いだのだと思った。
でもそれって、俺の手柄でも何でもない。
社会的関係のシーケンスの果てに、たまたま分不相応にもいただいてしまった。
そのまま古井戸の底にロウソクを下ろしたみたいに、ひっそり闇へと消えてしまうものだ。
今じっと手を見て、自分の欠格の度合いに、途方にくれるばかりだ。
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社会に出たら、歯車になりたかった。
なりたくない、という人の方が一般的なようだけど、
俺はそれからすると真反対の志向だ。
桁外れの落第生だった俺でも、今まがりなりにも頭脳労働で生計を立てているわけだけど
この頭脳労働というものは農業のような実体が無く、
取り組むテーマによっては、自分が歯車になっている感覚をどうにも得難い。
だから、頭脳労働によって社会的インフラに携わることで、
社会の歯車の一部たる自分を実現したかった、というのが、
かれこれ7年ほど前の俺の、生きるための言い訳だったように記憶している。
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過去からタイムマシンで2015年に来てしまったら、
「なりたかった自分」というやつがほとんど実現できていて、驚くんだろう。
いま住んでいる国の社会的インフラが大きく変貌するであろう歴史的瞬間を
4年前に手がけた仕事がきっかけで、特等席で目の当たりにすることを許されて1年が過ぎようとしている。
今は欠けている歯車に、これからなることを要求されているという実感が非常に強い。
でもそれって、俺の手柄でも何でもない。
社会的関係のシーケンスの果てに、たまたま分不相応にもいただいてしまった。
俺に、今まで会えなかったレイヤーの人々が、真剣に仕事の話をしてくれたり、
俺が、今まで隷属していたかもしれないレイヤーの人々を、真剣な仕事でないと叱り飛ばしたりしていると、
ふと自分が偉くなったような勘違いをしてしまっている瞬間があってぞっとする。
分不相応なことは何も変わっていなくて、自分を不断の努力により大きく変えていかなければならなくて、
ともすれば自分を糊塗したくなる。
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それでいて人生は、やはり飽き飽きして虚ろなままだ。
社会的役割としては、向こう15年はタスクが無くなりそうにない気がしていて
やるべきことに溢れているし、それは社会的意義だって高い。
でも、それらの実に興味深いことをこなすだけでは
もう俺の精神世界は拡がり得ないのだ。
すべてがお釈迦様の掌の中に収まってしまった感じがずっとあって、
人生の残り時間をそこに投じることに対して
途方もない無駄遣いをしてしまっているのではないか、という背徳感すらある。
だからか、最近はどうやら自分の指針を失ってしまっていて、確実に自棄だ。
なりたかったものになってしまった後は、どうしたらいいんだろうね?
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もう宇宙に行くしかないかもね!
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